保健室の先生

2011年6月29日

(修正)2013年5月15日



 

 今朝はうっかりブラジャーを付け忘れてきた。夏休みに毎日毎日ごろごろするばかりで、どこに出かけるでもなく過ごしてきたから、悪い癖がついてしまったのだ。

 私が通うのは男女共学のごくごく平凡な公立高校だ。まだ九月の初めだから、とてつもなく蒸し暑くて、当然、ブレザーなんて着てきていない。ブラウスには汗がしみこむ。ただでさえ“中身”が透けそうなこの時期に、とんでもない失態だ。

 私に色気が無いとか女っぽくないとか、図書室女になんて男は興味無いはずだと、頭では理解している。理解はしているつもりではある。ただ、年がら年中図書室にこもって本を読んでばかりいる私にだって少しくらい恥じらいは残っている、ということだ。

 残念ながら、この失態に気が付いたのは学校の校門をくぐった直後だった。もう少し早く気付いていれば、途中で薬局にでも寄ってバンソウコウか何かを買って、とりあえず一番隠したい部分をピンポイントに隠すとか、包帯をサラシ替わりにぐるぐる巻いて古風な女を演出するとか、対応が出来たのに。

 それまではあまり汗をかいていなかった。家から学校までは下り坂ばかりで、自転車を景気良くすっ飛ばしていたから。けれど教室は風通しが悪く、汗がじわじわと染み出てくる。滲む。透ける。見られる。ああ絶望。

 しかも時計は九時直前、朝のHRはもう終わって、一時間目が始まろうとしている。今から、四つ先の交差点にあるコンビニまで行く余裕は無い。

 保健室の葛城先生は生徒の味方、まだ二十代半ばの女の先生だから、理由を話せばきっと、包帯か何かを貸してくれるだろう。

 昇降口で、鞄を抱えて胸を隠しながら四苦八苦して靴を履き替えると、階段の前を素通りして保健室へ向かった。その間、古文担当の白ヤギ先生こと矢木先生とすれ違ったが、この人はもう精も根も尽き果てたおじいちゃんなので、あまり気にしなかった。

 保健室に入る。が、そこに肝心の葛城先生の姿はなく、男子生徒が独りぽつんと座っているだけだった。見覚えがある。隣のクラスで保健室登校をしている船井という生徒だ。眼鏡を掛けた、気弱で、声の小さい、チビ。

「あ、図書室女」

 船井が生意気にも私を不名誉なあだ名で呼んだ。毎日毎日遅くまで、図書室で本ばかり読んでいる妖怪・図書室女だとクラスのはっちゃけた連中に呼ばれている。妖怪以外は否定しない。ただ、読書の何が悪いんだ、図書室の何が悪いんだと、いつか文句を言いたいとは思っている。とはいえ保健室男のこいつに言われるのだけはプライドが許さない。

「ねえ、葛城先生は?」

 私がちょっとドスを聞かせて尋ねると船井は口元に人差し指を当てて、わざとらしく「しーっ、静かに」と言った。私が思わず立ち止まって口を閉じると、船井は指をくいっと曲げて、ベッドの方を指差す。保健室のベッドは誰かが使っている時に外から見られないよう周りにカーテンが掛かっているのだが、それが閉じられていた。

「誰か寝てるみたいだから」

 そう言えば他にも保健室登校をしている生徒が、他の学年にもいると聞いたことがあった。来るなり気力が尽きて倒れてしまう子もいるのだそうだ。船井がじっとおとなしくしていたのは、保健室登校仲間を気遣ってのことだろう。

 私はそっと抜き足差し足忍び足で船井のそばまで近寄って、もう一度、葛城先生はいないのかと聞いてみた。

「いないよ。どこか行ってるみたい」

 船井は囁くように言った。

「どこに行ったのか聞いてないの?」

「俺が来た時にはもういなかったんだ。さっき来たばかりだから」

 気弱な船井が俺という一人称を使うのがなんだか不似合いでおかしかった。

「どうしたの、富田さん。鞄大事そうにして」

 胸を隠しているだけなのだが、こいつに説明してやる義理は無い。船井を無視して私は、葛城先生のデスクを見た。バンソウコウも包帯も置いてない。

「何か要るの? 一緒に探そうか」

「バンソウコウ、どこかに無いかな」

「ああ、さっき白ヤギが最後の一枚使ってたよ」

 あのジジイめ。

「じゃあ包帯は?」

「それは分からないけど……どっか怪我してるの?」

「理由は聞かないでいいから」

「前に、あっちの戸棚から出してるのを見たけど、鍵がかかってるみたいだよ」

 やっぱり先生本人を探すしかないらしい。葛城先生がどこに行っているか心当たりは無いかと尋ねたが、船井は首をかしげて唸った。

「けっこう校舎をぷらぷら散歩してるみたいだよ。箒持って。なんかね、生徒の様子を気に掛けなきゃいけないんだって。それと校舎の安全確認も保健の先生の仕事だって言ってた。掃除ついでに校舎の見回りをするのが日課らしいよ。まあ、それはきっとタテマエで、本当はどうせどこかでサボってるんだろうけど」

 そうそう、葛城先生はそういう人だ。と頷いた時、チャイムがなった。一時間目が始まったのだ。遅刻してしまう。別に評価が下がるとか内申書に悪く書かれるとか、そういう細々したことはどうでもいいのだが、人より遅れて教室に入った瞬間、足を踏み入れたその一瞬、きっと集まる教室中の視線が辛い。特に今日は、人に注目されたくない理由があるのだ。焦る私に船井が言った。

「そう言えば、よく中庭に野良猫が遊びに来るんだって。葛城先生って猫好きだから、中庭にいるんじゃないかな」

 私は船井の情報を頼りに中庭へ走った。中庭へ出るには保健室から再び昇降口を回って、職員室の前を通り抜けて校舎の反対端へ行かなければならない。もう一時間目が始まっている。職員室の前を通り抜ける時は、足音を立てないように、姿を見られないように、慎重に、上履きを脱いで身を屈め、靴下で滑るようにして駆け抜けた。

 中庭へ出るガラス戸から、外の様子をうかがう。誰もいない。中庭にある三つのベンチはどれも無人だった。ただお日様のぽかぽかと当たる花壇の真ん中に一匹の白い猫がぺたんと座って、ふにゃあ、とあくびをしているだけだ。抱っこしてぐしゃぐしゃになるまで撫で回してやりたい衝動に駆られたが、ここは我慢しなければ。

 私は船井にぶつける悪態を考えながら同じようにこそこそと職員室前を通り抜けて保健室へ戻った。

「居た?」

「居なかった」

「じゃあ、二階の売店じゃないかな。あの人、よくアンパンを買うかアップルパイを買うかで三十分くらい悩むって言ってたから」

 そうそう、葛城先生はそういう人だ。私は船井に罵声を浴びせるのを保留にして、新たな情報を元に売店へ向かった。

 売店には眼鏡を掛けてぷっくり太ったおばちゃんの店員さんがいる。売店と言っても品揃えは大したものではなく、筆記具とパン類しか売っていない。昇降口の正面にある階段を上ったすぐ目の前が売店だ。今回は、中庭に行くときほど注意はしなくていいだろう。

 ところが階段の前まで来たとき、上のほうから声が響いてきた。私は慌てて掃除用具入れのロッカーの影に隠れた。足音がだんだん近づいてくる。どうやら二人いるようだ。声からして男だろう。葛城先生ではない。見つかりませんように、見つかりませんように。息を潜めてじっとしていると、体育科のムキムキゴリラ岸田先生と物理のマニュアル教師横田先生が二人並んで愚痴を言いながら私の目の前を通りかかった。

「最近の生徒はなっとらんですな」

「はい、まったくその通り」

「ちょっとひっぱたくとすぐ親にチクって騒ぎ出しますからな」

「ええ、まったくその通り」

「肩をちょいと叩いただけでセクハラだ何だと言い出しますしな」

「うむ、まったくその通り」

「おまけに体力は貧弱で精神は軟弱ですからな」

「おお、まったくその通り」

「そのくせ発育ばかり良いですからな」

「いや、まったくその通り」

「尻など堪らん形状しておりますな」

「実に、まったくその通り」

 岸田先生ってちょっとエロいな、とか、横田先生ってちょっとおかしい人なのかなとか思いつつ、私は二人が通り過ぎるのをじっと待った。幸い二人とも、ロッカーの陰に身を潜める私には気付かなかった。

 私は階段を駆け上り、柱の影に隠れると、そっと売店のほうを覗き込んだ。売店ではおばちゃんが、頬杖をついて目を閉じている。授業中は暇で仕方ない、といった様子だ。

「居ねえじゃん」

 今度こそ船井を罵ってやろうと心に決めて、私は保健室に戻った。

「居た?」

「居なかった。あんたさっきから適当なことばっか言ってない?」

「そんなことないよ。だって、どこにいるのか知らないんだから。心当たりを教えてるだけじゃないか。それより、さっき思い出したんだけど、一年五組に可愛い新入生とが居るって先生騒いでたから、五組の教室を覗いてるんじゃないかな。ほら、あの人ってちょっとショタコン入ってるし」

 そうそう、葛城先生はそういう人だ。

「一年の教室って言うと……四階だっけ」

「そう。五組は四階の一番奥だね」

 行くのが面倒な場所だ。

「他に心当たりはないかな。何度もここに戻ってくるのバカらしいでしょ」

「三階に美術室あるだろ。美術部って、ほら、オタクの集まりじゃん」

「そうそう、漫画ばっか描いてるんだよね。私、文化祭のときに美術部のコーナーのぞいて見て、ちょっとひいたの」

「俺も。でね、美術部がBL雑誌持ってきてるらしいんだ。時々、先生はそれを読みに美術部行ってるらしいよ」

 そうそう、葛城先生はそういう人だ。

「あと、屋上はどうかな」

「屋上? あ、そうか。校舎禁煙だから」

「あの人、一時間に一本は吸わないとイラつくって言ってるし。いっつも屋上で隠れてタバコ吸ってるから、いちばん居る確率が高いと思うよ」

 そうそう、葛城先生はそういう人だ。

「最初に言ってよ、それ」

「忘れてたんだよ」

 船井の頭を一発殴ってから私は保健室を飛び出した。

 

 十分後、私は保健室に戻ってきた。

「居た?」

「居なかった」

 屋上にはタバコの吸殻が残っていたが、葛城先生の姿は無かったのだ。美術室には確かにBL雑誌が隠してあったし、一年五組で可愛い男子を見つけたけれど、けど、肝心の葛城先生はどこにもいなかった。

「他に心当たりはないなあ」

「葛城先生って言ったら、可愛い男子探してるか、BL雑誌読んでるか、隠れてタバコ吸ってるか、あとサボってるイメージしかないもんね」

「後は昼寝かな」

「昼寝?」

「そう、よく保健室のベッドで寝てるんだ」

 船井が言った時、どこからともなく、ああよく寝た、という聞き慣れた声がした。私と船井が揃って部屋の隅にあるベッドのほうに顔を向けると、勢いよくカーテンを開いて、寝癖頭の葛城先生がひょっこりと出てきた。

 そうそう、葛城先生はこういう人だ。

 

 (了)


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