夜の校舎はしんと静まり返っている。普段の賑やかな廊下を知っているからか、無人の廊下を二人で歩いていると、まるで別の世界に迷い込んだような錯覚を覚える。懐中電灯を手に進む三島と並んで歩く僕は、複雑な思いで歩を進めていた。
この先に待つのは、星野さん達の集まっている『現場』だ。彼らの目的が三島の予想通りだとすれば、その『現場』を僕は直視することになる。一晩に続けて衝撃を受けたくない。やっぱり星野さんは、僕の理想の星野さんのままでいて欲しい。勝手な願いだ。非現実的な願いだ。それでもそう願ってしまう僕は、口では諦めた諦めたと言いつつもやっぱり片思いの初恋を引きずり続けていたらしい。こんな形で自分の未練がましい恋を再確認したくは無かった。
「綺麗だね、月が」
いつもと違う口調で三島が呟いた。空には、やや楕円になっているものの、満月に近い形の月が銀色の光を放っている。月光は静まった地上に降り注ぎ、窓から差し込んで廊下を照らしている。
「いつも見てる昼の廊下は真っ白なのに、夜になると綺麗な夜の色になるんだね。夜の色って不思議だと思わない? 青くも見えるし、銀色にも見えるけど、黒くもあってさ」
三島が、三島らしくない事を言っている。
「水平線の先みたいな色だよね。藍色に染まった海と空の境界線の色って、夜の色と似てると思うわ」
「海と空の境界か。あんまり見たことないな」
「一回、見てみなさいよ」
「機会があったらね」
僕らは取りとめもない会話を自然と交わす。それが一番奇妙と言えば奇妙な出来事だ。何がおかしいのかはっきりとは分からないけれど、自分の中で違和感を覚える。違和感と、不安と後悔と何やらで喉の奥がむず痒い。深呼吸を繰り返しても取り除けないむず痒さは、治まるどころか強くなっていくばかりだ。やがて僕らは屋上へと出る扉の前に着いた。
三島が扉に耳をくっつけて、「声がする」と囁いた。いつの間にか、夜の色を語っていた三島の顔が消えて、獲物を追う狩人のような目付きに戻っている。こっちのほうが僕の見慣れた三島である。
「行くわよ」
二人そろって深呼吸。不思議と僕らは息が合ってきていた。三島はドアノブに手を掛けると、勢いをつけて一気に扉を開いた。
そこに、星野輝美がいた。岩井や江藤もいる。予想通りの顔ぶれ。しかし、屋上で繰り広げられていたのは、僕らの予想とはまるで違う光景だった。
三人はそれぞれ手を握って、円を作っていた。屋上の真ん中で、三人は輪になって立っている。決して、不純異性交遊ではないが、何をしてるのかよくわからない。
「はっははぁ! 星野輝美とその一味! 学校は完全に包囲されてるわよ、大人しくお縄に着きなさい!」
時代劇の見過ぎだ。
七人で完全な包囲なんてできるわけがない。
大体、一味って。
ツッコミはいろいろ浮かぶ。口に出して三島を怒らせたら怖いから黙っているけど。
星野さん達は目を丸くしている。てっきり、遅刻して来た二宮だと思ったのだろう。それが、現れたのは三人が最も恐れる・・・であろう・・・風紀委員の三島だ。二人は驚きのあまり声を失い、もう一人・・・江藤は僕の顔を見て、「うあ」と声を洩らした。
「えとおおおおぅ! お前のせいで俺はこんな所にいるんだぞ、わかってんだろうなあ!」
何しろ奴は僕が委員会の取調べを受けるキッカケを生んだ相手だ。親の仇以上の仇敵だ。こいつだけはこの手で捕まえてやる。
「ふっふっふっ・・・二宮は先に宿直室でお説教されてるからね、あんたらも・・・」
桃太郎侍というよりは、山吹色の饅頭を受け取りほくそ笑む悪代官のような顔をした三島が、星野さん達ににじり寄る。見ていて不安を誘う光景だ。
「逃げてっ」
星野さんが叫んだ。石化の呪縛が解かれたように、岩井と江藤の二人が我に帰る。だが屋上からの出口は僕らが立っている扉だけだ。
「に、逃げろったってどうすりゃいいんだよ・・・」
岩井がうろたえている。僕としては、女たらしのこいつも許せない。星野さんの彼氏だって言うのも個人的に許せない。どさくさ紛れに一発でも打ん殴ってやりたい相手だ。
「逃げる場所なんてないわよ! 諦めて、宿直室に行きましょうか」
その時、岩井が星野さんの腕を掴んで引き寄せると、近寄りつつあった三島の方に向かって、江藤の背中を蹴って突き飛ばした。
「うわっ」
バランスを崩した江藤が三島に倒れ掛かり、予想外の行動に反応できなかった三島を巻き込んでその場に盛大にすっ転ぶ。すぐに岩井が星野さん腕を掴んで、二人そろって僕の方めがけて走り出した。
「栗田ぁ、捕まえろお!」
三島が叫ぶ。けれど僕は喧嘩なんてしたことがない。岩井の奴は僕の目の前まで来ると、いきなり襟首を掴んで力強く引き寄せる。殴られるっ! 思わず僕は目を閉じた。
僕は両手で奴の腕を掴んで振りほどこうとした。だが岩井は、今度は急に両手を使って僕の事を突き飛ばす。勢いよく突き飛ばされた僕はそのまま仰向けに倒れて、後頭部を床にガツンと打ちつけた。一瞬目の前が真っ暗になって、真っ白になって、夜空とは別の星がチラついた。気絶しなかったのは奇跡かもしれない。
「痛ぇ!」
頭を抱えながら起き上がろうとした僕の腹を岩井が力強く蹴り上げる。衝撃に一歩遅れて激痛が襲ってきた。さすがにこれは堪える。夕食に食べたスパゲッティが喉から飛び出しそうになった。
「ダメっ」
星野さんの声がした。
うずくまる僕を、なおも岩井の奴は蹴飛ばそうとしている。星野さんはそれを押しとどめていた。
一瞬、僕と岩井の目が合った。獰猛な目をしている。こんな奴に僕は負けてるのか。こんな奴に星野さんを・・・。そう思うと悔しくて涙が出そうになった。
が、それも束の間。視界の外から急に大きな声が響く。
「あんたら二人、ぎっちょんぎっちょんにしてやるからねっ!」
三島復活。ついでにその隣では、犠牲にされた江藤も恨みがましい目で岩井の方を睨みつけている。
形勢不利と見たか、岩井は星野さんの腕をがっちりと掴みなおすと、階段を駆け下りていった。僕は彼らを追いかけることも出来ず、蹴られた腹を抱えてうずくまっていた。最初に僕のところへ駆け寄ってきたのは江藤だった。
「よぉ、マロ彦、大丈夫か?」
こんなときでもいつものあだ名で呼んでくる。栗田嘉彦が僕の名前。栗を英語でマロンと言うから、マロ彦。中学の時に付けられたあだ名だけど、高校に入ってからもマロ彦で呼ぶのは江藤くらいだ。
「・・・元はと言えば・・・お前の・・・せいで・・・・・・」
「ああ、悪かったよ。今度なんかおごるから、許せ」
「・・・・・・二千円以上じゃなきゃ許さない」
「千五百円にまけとけ」
とりあえず、それで許してやることにする。すぐに嘘をついたり、誤魔化したりするのも折り込み済みでこいつとは友達をやってるんだから、いつまでも根に持っていたって仕方ない。そういうのも含めて付き合うのが友情ってやつだろう。
「今頃あの二人も、先生達に捕まってる頃ね」
三島は案外なほど落ち着いていた。余裕から来る落ち着きだろうか。
「栗田、怪我はしてない?」
「多分。とにかく痛いだけ・・・かな」
「なら平気でしょ。頑張れ男子っ」
けど、涙が出ちゃう。だって男の子だもん。
「岩井の奴、俺の事まで突き飛ばしやがった」
「栗田よりはマシでしょ。あの女たらし、この貧弱男を張り倒した上に、無抵抗なのを見ても蹴り飛ばすなんて、いくらなんでも許せないわ。あいつら、カップル揃って晒し首にしてやる」
「いやいや三島さん、さすがに首チョンパはまずいッスよ」
江藤がへらへら笑いながら言う。ようやく痛みが引いてきたので、僕もその場に立ち上がった。
「それで、江藤。お前ら何してたんだ?」
「へ? 何って、なんだよ。二宮から聞いたんじゃなかったのか」
「あのデブは、いくら聞いても泣いてるばっかりで、何も答えてくれなかったのよ」
「ははは、二宮がデブなら三島さんだって相当・・・いや、深い意味はないッス」
「二宮は逃げようとしたから縄でぐるぐる巻きにしてやったんだけど。あんたもそうされたい?」
目が本気だ。
「いや、ねえ。星野さんがUFOを呼ぼうって言うから着いてきたんだよ」
「UFO?」
三島が素っ頓狂な声を上げた。
「何よ、それ。その為にわざわざ夜に学校まで忍び込んでたわけ? バカじゃないの」
「そりゃあ、もしかしたら・・・って下心もあったけどさ、別に変な事はしてないよ。みんなで手を繋いで輪になって、『ベントラー、ベントラー、スペースピープル、スペースピープル、こちら地球です』って言うの。ただそれだけ。終わった後にみんなでマック行くのもなんか楽しくてさ。へへへ、星野さんとずっと手繋ぎっぱなしだったんだ。マロ彦、よかったらあとで間接握手させてやろうか」
間接握手って何だ。
「何でお前の手を握らなきゃいけないの」
江藤は僕に向かって右手を差し出した。
「ついさっきまで握ってたから、温もりが残ってるかもしれないぞ」
とりあえず握ってみる。
「あんた、それ握るの? バッカみたい!」
三島が呆れた声を上げる。そりゃあそうだ、自分だってバカだと思うんだから。
「あちゃあ、こっちの手は岩井と繋いでた方だった」
うわあ、ばっちい。
「からかってんのか」
「うん」
やっぱり二千円以上おごってもらう事にしよう。
「江藤、あんたさっきから随分とヘラヘラしてるけど、勝手に学校に忍び込んだのは事実なんだからね。停学処分くらいは覚悟しなさいよ」
「あ、やっぱりそういう事になるの? 反省文とかじゃあ、無理ッスか」
こんなときでも江藤は、嘘吐き特有のヘラヘラした愛想笑いを崩さない。こいつにとっては怒られるのなんて日常茶飯事なのだ。ある意味、大物かもしれない。
「さあ・・・それは宿直室で他の三人と一緒に聞いたらどう? 田中先生と山室先生と小島先生が待ってるから」
ずらりと並んだ体育教師の名に、さすがの江藤もちょっと怯んだ。それを見て、ようやく三島は満足そうに笑った。
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